世の中に、「価値」はどれほどあるか?
資本主義とは、価値を数値化しようとする遠大な努力の過程である。土地も、知識も、本来自然的であった諸概念さえも、人為的に規定されたあらゆる権利概念のもとに、帰属するべき所有者を定め、その価値を数値化し、有限の値を持つ「価格」として、万人に共通の尺度とする。有限の数値であることは、そこに古典的な代数関係を持ち込むことが出来ることを意味する。すなわち、価値を数学の方程式によって均一化、平等化することこそが、資本主義の根幹を貫く理念と言える。しかしながらその営みが現実に産んできた結果は、常に平等化できる以上の、不平等な価値の創出であった。それはある商品に対する使途が消費者によって様々であることによって、如実に代表される。しかしその事実はしばしば認知されない。なぜならば、ある権利概念に対して定められる価値は、本質的に受け手の側に自由があるが、それが実際に公に対して示される場合には、最終的には生産者によって設定された価格に対して「買うか買わないか」という二値的選択でしか表現され得ないからである。言い換えるならば、ある有限の価格を持つ商品には、本質的に無限個の価値が隠されているのである。こうした隠れた価値は労働によって創り出されたものだろうか? 残念ながらそれは本質的ではない。なぜならば、人間の最も人間らしきは、自然界のそのもの、抽象的想念にさえ価値を見いだす点にあるからである。頭上に広がる美しい星々に所有者があるか。夕日は労働によって作られたものであるか。それは、人為的商品に対しても同様である。人はあらゆる商品に対して、そこに無限の種類の価値を見いだす存在なのである。労働は商品を構成する原料の形態を組み替えて、その価値を有限の価格に代表させる助けをするに過ぎない。その点において、生産者と流通者がなす資本主義経済に対して寄与は論理的に等価と言える。此処において、資本主義が目指す価値の数値化計画は、永劫に不可能であることが示される。それを強引に進めれば、人間は人間本来の特性を歪められ、資本主義経済が目指す効率的な財の蓄積に、大きな負の寄与をするであろう。現状の先進資本主義経済は既にこの段階に到達しているように見える。
資本主義国家を構成する我々は、この事実から目を背けてはならない。すなわち我々は、価格に代表され得ない種類の価値が存在する事を共通的認識として受け入れ、それが如何なる種類であるかを真摯な理性によって分類し、その価値を既存の資本主義経済体系から切り離すために断固とした態度を取らねばならない。それは客観的数論体系としての資本主義経済から、それと相容れぬ価値の病巣を取り除く計画であり、その未来を保存するために必要不可欠な措置である。
数値化不可能な価値とは何か?
資本主義経済を最も根底で支えている理念は、等価交換の原理である。それは供給者と受給者が等価と考える共通の概念を対象に、その所有的権利を交換する契約とその履行によって完了する。供給者と受給者のみが存在する契約においては、貨幣は本質的ではない。貨幣は等価であるだけでは許容しがたい社会的制約のために、その局所的絶対価値を示す基準として存在し、等価性のみから成立しうる契約においては、その存在は必然的ではない。非常に重要な点は、等価交換の原理がその契約対象権利の固有性、すなわち、契約によって供給者はその契約対象物の権利を失い、受給者がそれと等価の権利を得るという事実を当然の前提として構成してある点である。非常に多くの権利においては、この前提が問題なく当てはめられる。及ち、所有権、地権を始め、民法に定められた多くの諸権利は、その帰属者を対価を伴う契約によって「移動」することが可能である。移動の前後において、量化された諸権利の総量は不変である。この大前提があるからこそ、権利は発散することなく有限の数値に還元され、貨幣による量化を可能にしているのである。主要先進資本主義国が法的に明文化している諸権利の中で、この前提に違反するものは「人権」でしかない。人権は「移動」が許可されない、個人に絶対固有の権利として規定され、それ故人権の金銭的譲渡は認められないのが普通である。
しかしながら、現状においてはこの前提を根本から覆す対象概念までが、平然と契約対象権利として是認されている。その一つが「情報」である。情報は、その譲渡によって供給者から失われることがない。これは情報が完全に複製可能であることに起因する。特に、情報を利用する権利、情報を所有する権利は、契約時に供給者から完全に剥奪することが出来ない。故に情報の供給者は原理的に無限回の契約を通じて、一切の労働的生産行為なしに無限大の富を蓄積することが許容される。これは数値化不可能な価値を無理に数値化したことによる重要な社会的弊害の例である。労働的生産行為無しに金銭対価を一方的に収奪できる権利は、等価交換の原理に従うその他の多くの商品と比較して、供給者が圧倒的に優位である。ゆえに情報的市場は供給者の排他的市場支配を容易に促し、資本主義経済に内在する独占市場の形成を一層加速するのだ。
我は何を主張し、何を遂行するのか?
我は旧来の労働行為を、情報生産の一形態と見なす。何故ならば原材料と製品の間には、本質的に量的な差異は認められないからである。そこにあるのは質的な差異であり、それが労働による情報の寄与であると考える。しかし、旧来の労働行為はそれによる寄与が製品に固有のものとして限定されていた。製品の複製が容易でない限り、労働行為による情報も複製は容易でなく、等価交換の原理は許容される範囲で成立していたと考える。
通俗的な科学法則を信じる限り、情報は原理的に物質の介在無しには伝播しないものである。しかし、現代の商品的情報は、計算機網や磁気的光学的記録媒体など、情報それ自身が持つ価値に比べ、介在する物質の価値が無視できる程度に低く、寧ろ情報自身が持つ非交換的様相とそれによる市場の歪みが指摘されて当然の状況である。
かくのごとき状況を鑑み、我は数値化不可能な価値を既存の経済から分離し、最も適切な手段で其れが伝達されるための具体的手段を提示し、付随する諸権利の明確化を主張する。先ず為されるべきことは、完全に複製可能な情報が無限大の価値を持つことの認知であり、及ち等価交換の原理から、情報には何人たりとも、契約にあたってそれ自身に帰属する有限の価格を設定できない点である。その上で、情報を媒体のみの価格にて配布する際に、一切の諸権利が原著作者に帰属することを再確認せねばならない。一切の諸権利とは、例えば複製権及び複製許諾禁止権、配布権、再配布権の付与と停止権等、既存の著作権から対価に関する権利を除外した総てである。我々は、この思想に基づいて配布される情報を「フリーの情報」と呼ぶ。フリーの情報は、対価以外の限定的条件のもとに配布されるべきである。及ち、本質的に無限大の価値を持つ別の情報との交換、例えば「感謝」や「利用」そのものや「共同開発への参加」など、金銭的価格を介在しない交換条件によって配布されるべきだ。故に我々は情報それ自身に価格を設定する商業的ソフトハウス、営利目的の出版活動、その総てを否定する。情報の価値は受給者の側に自由があり、受給者の責任にて利用されるべきものである。供給者には情報に関する一切の責任は発生せず、従って媒体価格以上の対価を請求することは許されない。
暗黒団は、今後生産する著作物の全てを、「フリーの情報」として配布し、配布に要する媒体の物的経費及び流通経費以外を受給者に負担させない。